「梅原龍三郎・ルノワール伝説の真実」新日曜美術館

ゲスト解説者は高階秀爾大先生である。

ルノワール梅原龍三郎を解説するのに、

高階秀爾大先生を呼びつけるとは、

NHKって贅沢すぎる。

牛刀でミジンコを裂くようなもんw

で、フランス留学中にルノワールに弟子入りした梅原龍三郎には、

以下のような伝説があった。


パリに住居を構えた翌朝、さっそく美術館巡りを始めた梅原龍三郎は、

ルノワールの絵に遭遇し、

「これこそ、私が理想とする絵だ!」


と思ったそうです。

伝説というか、本人の回想録に書かれているので、

美術史学的には間違いのない真実とされていたが、

少し知性と教養のある人物なら、

すぐ思い付く疑問点がある。

ルノワールなんていう知的レベルの低い画家を理想とするとは、梅原龍三郎ってき○がいか?」

で、梅原龍三郎の汚名を晴らす為、東京芸大で学んだ孫娘が立ち上がった!

そして孫娘は梅原龍三郎の日記を発見する。

フランス留学中の事が細かく記されていた梅原龍三郎の日記には、

もちろん、パリに着いた翌朝にルノワールの絵を見て感動したなどという記述はなかった。

どこそこの美術館で誰々の絵を観たという記述が続くが、

ルノワールの名が出てくるのは、やっと二ヵ月後である。

そこにももちろん、ルノワールに感動したという記述はない。

が、梅原龍三郎ルノワールに弟子入りしたのは、事実である。

梅原龍三郎ルノワールを師匠に選んだ真実が暴かれる!

それは、ルノワールが最新の人気画家だったからである。

金持ちの家のボンボンとして育った梅原龍三郎には、

フランスに留学する金はあったが、

東京芸大出身ではないので、

画壇にコネが無く、

帰国して展覧会を開いても話題にならないことは判りきっていた。

梅原龍三郎はフランスで数ヶ月間情報収集に励み、

プロとして日本でデビューする道を模索する。

ただのおフランス帰りの画家というキャッチコピーでは受けない。

「今、フランスで大人気のルノワールの弟子」

という宣伝文句の為に、梅原龍三郎ルノワールを利用したのだ。

宣伝はする為の媒体も必要である。

フランスに居ながら、梅原龍三郎は日本の文壇も利用する。

美術にも興味があった白樺派と手を結び、

白樺派の同人誌を宣伝媒体として活用し、

帰国後、見事に、ルノワールの弟子の梅原龍三郎はプロ画家として成功する。

ルノワールの弟子を売り文句にするのだから、

ルノワール自身も素晴らしい存在である必要がある。

日本画壇にコネのない青年がプロの画家になるには、

外国の権威を利用するしかなかったとはいえ、

ルノワールなんかの弟子になるしかなかったとは、

梅原龍三郎は画家としての良心が相当痛んだろう。

晩年の回想録では、正直に、

ルノワールの弟子にならなかったら、私はもっと良い絵を沢山描けた」

と言ってますw

で、梅原龍三郎の最高傑作は、ルノワールが死んで、

ルノワールエピゴーネンを演じる必要が無くなった晩年に描かれた

風景画「北京秋日」ですな。

ルノワールは死ぬ直前まで、大好きな女の絵を描いていましたがw

で、女の裸が大好きな、知性と教養に乏しいルノワールであったが、

師匠として利用した懺悔を、

梅原龍三郎は絵で描いているのが、まさに画家。

ルノワールの「パリスの審判」を同じ構図で梅原龍三郎も描いてます。

何も考えずに、女が好きだから女を描き続けたルノワールの「パリスの審判」と

梅原龍三郎の「パリスの審判」を比較すれば、

本物の成長する画家とは何かが、よく判るであろう。

ルノワールの呪縛から解放された梅原龍三郎

ゴーギャンピカソの知的レベルに迫っていたことが読み取れます。

ちなみにゲスト解説者の高階秀爾は、ルノワールのファンと誤解されることを怖れたのか、

「僕もフランス留学中に色んな絵を観たけど、いつ誰の絵に感動したかなんかもう覚えてない」

と遠回しに、フランス留学してルノワールに感動する奴なんているかよと言ってるのが面白い。