『画家と自画像』 田中英道 講談社学術文庫

少しは勉強になり、名セリフもあるにはあるが、
田中は、中世的思考と近代的思考の違いを理解していない馬鹿である。
理解しているのかもしれないが、歴史認識の捏造を行い、
レンブラントの深い精神性は中世ではなくて近代だ!」
と、とんでもないことを言い出す始末。
レンブラントの素晴らしさを訴える為に、既成の学説を捻じ曲げ、
あの手この手で絶賛しているが、
完全に逆効果の失敗作である。
レンブラントは二流で田中も二流と言いたいが、
田中は品性卑しい三流である。
田中は農民という単語を、
「威厳の無い貧相な顔」
の意味で使っている。
農民作家ミレーの農民賛歌の絵を真似たゴッホの絵を、
「土臭い絵」
と斬捨てている貴族的封建主義マンセーの時代遅れの三流である。
農民を馬鹿にしても、農民が美術に興味持つわけがないから、
クレームくるわけがないと思い込んでいる舐めた野郎である。
レンブラントの自画像が素晴らしいのは、
「私を見つめる私を見つめる私」
と、自意識が三重構造まで解脱しているからだと説くが、
自分の作品を客観的に見て、深く考察するという意識が素晴らしいと説かれても、
その手法が自分の本には生かされてない無神経な男の説は説得力がない(藁
悟りの境地まで解脱したレンブラントというと凄そうだが、
解脱して社会との接点を諦めたレンブラントは、画家としての力不足を証明している。
レンブラントにもゴヤのように近代性に目覚めるチャンスはあった。
市から祖国オランダを褒め称える絵を依頼された時、
オランダ人そのものを批判する絵を描いたのだが、
絵の持つ力がゴヤに劣る為、市当局は怒り狂うだけで、レンブラントの絵の価値は認めず、
金は払わず絵を突っ返したそうです。
宮廷画家でありながら王室を批判する絵を描いて、
それが王室にも受け入れられてしまうゴヤって、凄い天才画家だよな。
まさに背理の爆発者(藁
近代性とは自己を深く見つめるだけではだめです。
自己と社会との関りを考察しなければだめです。
他人や社会に冷徹な観察眼を向け、その本性を暴いたゴヤは、
自画像でももちろん自分を美化なんかしてません。
全ての自画像が、汚い服をだらしなく着て髪がボサボサのデブのおっさん顔である。
ちなみに自分を一番美化しているのはデューラーが定説だと思われるが、
筆使いのやる気や描き込み度を判定すると、
女流画家のヴィジェ・ルブランが一番悪質に思われます。
あきらかに自画像には精魂傾けて美少女に描いているが、
他人の女の肖像画には手を抜いているのがあからさまに判るそうです。
まあ、自分を正当化する事しか考える能力を持たない女の自画像なんてそんなもんだろうがな。
自画像の研究書と言っても、メジャー系の画家ばかりで、
フリーダやココシュカの血だらけの自画像が紹介されてないのは物足りないが、
田中はレンブラントファンで、世界の名画を碌に見ていないと思われるので仕方ない(藁
17世紀人ならレンブラントを絶賛するのも理解出来るが、
21世紀にもなってレンブラントを凄いと言うのは、自分に絵の素養がないと言ってるようなもんですぜ。
17世紀以前に限定すれば、ベラスケスが世界一だよねぇ。
レオナルドの絵も現代には見る意味が無いと思うが、
レオナルドの芸術論には共感した。
「芸術家は孤独でありつづけるべきである」
と語り、友人は創作活動の邪魔だと主張するのだ。
騒がしい友人が傍にいると、頭に浮かんだ素晴らしいヴィジョンも、
絵に描く前に失われてしまうと言うのだ。
友人が一人いれば、悲しみは半分に喜びは2倍になるとよく言われるが、
レオナルド説では、一人いると芸術家としての才能の発現が1/2になり、
二人いると1/3になり、
39人もいたら、芸術活動どころか、騒がしいお遊び集団になるしかないと思われ(藁
40人学級の美術科は、芸術家を養成する機関ではないと、
500年も前に見抜いていたレオナルドの天才性には感心した(藁