週刊グレート・アーティスト19・ルドン

ルドンの素晴らしさを紹介するのに、ルドンが語った名文句をまず挙げる。

印象主義の画家は外面の理想にこだわりすぎる。」

印象主義のような狭い領域にとどまる人たちは、たいした目標はもっていない。」

オディロン・ルドンクロード・モネと同じ年にフランスに生まれているから、
普通の才能の持ち主だったら、印象派の画家になっただろう。
だが、ルドンは象徴主義の魁となった。
ルドンは印象主義に満足出来る小物では無かったのだ。
フランス人であるから、ルドンは当然美術アカデミーに入学するが、
ルドンの深い思索は、学生時に既に教師を越えていた。
教師と喧嘩してアカデミーを退学になったルドンには、
普通のエリートコースで画家になる道は絶たれた。
公的教育コースから外れるということは、
美術界にコネがなくなるということだ。
いや、フランス美術界を敵に回すと言ってもいい。
だが、ルドンには、受ける為に、印象派のような知的レベルの低い絵を描く気にはなれなかった。
画壇から無視される孤高の画家としてのルドンの生活が始まる。
アカデミーにいれば、展覧会で自分の絵を発表することは簡単だったろう。
だが、ルドンには公立のルートは絶たれている。
いくら素晴らしい絵を描いても、発表して他人を感動させられないのでは、芸術家として生きる意味が無い。
なんとか自分の芸術を認めてくれる私的サロンを見つけたルドンは、
そこで知り合った花の画家アンリ・ファンタン=ラトゥールにこう言われる。
「集団で和気藹々と展覧会に出品するだけが、作品発表の手段ではない。
油彩の大作一品で勝負しなくとも、リトグラフ自費出版するという手もある。
展覧会が出来ないのなら、出版物としてバラ捲いてみたらどうか?」
こうしてルドンの作品が初めて世に出たのは、ルドン39歳の時であった。
出版物は、文壇の関心を呼び起こす。
画壇には無視され続けたルドンだが、
ルドンの才能を見つけた文学者たちは、ルドンに文学作品の挿絵を依頼したり、自分の小説の中でルドンを絶賛し始める。
ルドンの価値を認め、ルドンの周りには小説家や知識人が集うことになる。
負のイメージを持つ題材も、価値を逆転させて、
芸術の対象とするルドンの絵(例・気の弱そうな優しい顔の悪魔)
には悪魔崇拝主義者という勘違いしたファンも付いたが、
ルドンは「誤読するな」とは言わずに、自分のファンとして大事にした。
しかし、画壇はルドンを無視しつづける。
ならばと、ルドンは賛同者を結集して、自らの手で新しい芸術家協会を創設するに至る。
権威に反逆して孤高の道を歩んだルドンだが、
自分の芸術の力は、既成の権威と同等以上の権威を獲得するに至る。
そして遂に、ルドンは44歳の時に展覧会を催すことに成功する。
画壇もルドンを無視し続けるわけにはいかなくなった。
ルドンは46歳の時に印象派と合同で展覧会を催す。
ちなみに、ルドンと合同で展覧会をやった後に、
印象派の画家たちは、ニ度と印象派展をやることはなかった。
本物の芸術に触れ、つまらない印象派としての自分を恥じて、
展覧会活動は自粛したのだろう。(藁
印象派の画家の中では、ポール・ゴーギャンが素直にルドンを認めて、
二人の親密な付き合いがはじまるのだが、
ゴーギャンの取巻きたちは、印象派よりルドンに惹かれてしまい、
モーリス・ドニは「セザンヌ礼賛」という、
如何にも印象派礼賛と思わせて、
実はルドンを礼賛しているという、皮肉たっぷりの絵を描いた。
セザンヌの絵の周りにルドンとドニたち若い画家が集っている絵だが、
誰もセザンヌの絵なんて観ていない(藁
若い画家たちは全員、ルドンを尊敬のまなざしで見つめています。
ドニは何の力も持たない若い画家だから、
素直に「ルドン礼賛」というタイトルに出来ない事情があったと察してやろうね。(藁
セザンヌの絵なんて観る価値は無いという絵を描いたドニは、
皆さんご存知の通り、メジャーにはなれませんでしたが、
ルドンなみの才能があれば、正規の美術教育を受けて無くても、
コネがなくても、画家として必ず報われます。
真面目に芸術家をめざしている人はガンガレ!

No1:花のなかのオフィーリア

この絵は右側を下にして見ると、本来の意味が見えてくるそうです。
見てみたら、なるほどね。
軟弱な女の絵ではなくて、花の持つ精神的生命の素晴らしさを訴えているのだ。
女より花の方が素晴らしい存在だと訴えているのである。
女の絵なんかで、心は癒されませんし、魂は救われません。
ルドンには女と花を同じフレームに入れた作品も多いが、
主役は花であり、綺麗な女だけを描く画家は、
志しが低い似非芸術家であると揶揄しているのである。

No2:自画像

No3:ペイルルバートの風景

No4:クラヴォーの肖像

No5:夢のなかで

No6:ルドン夫人の肖像

No7:アリ・ルドンの肖像

No8:大皿にのった殉教者の首

No9:死「わが皮肉は他のすべてを超える」

No10:目を閉じて

No11:勝ち誇るペガサス

No12:長首の花瓶に挿した野の花

No13:ヴィオレット・エーマンの肖像

No14:オルフェウス

No15:聖セバスティアヌス

No16:神秘

No17:キリストの頭と蛇

No18:レオナルド・ダ・ヴィンチ礼賛

ダ・ヴィンチレベルの絵なんて、描く気になれば、
近世以後の画家は誰でも描けます。
ダ・ヴィンチが礼賛されるのは、美術史的に初めてな
色々な手法を使ったからである。
ダ・ヴィンチは中世、過去の遺物ですよ。
21世紀においてもダ・ヴィンチが好きなんていう人は、
碌に絵を観てないことがバレバレなので気を付けるように。
で、ルドンのこの絵は「聖アンナと聖母子」のパクリだが、
ダ・ヴィンチ作品をそっくりに模写したって、何の感動も発生しないので、
ルドン的な花や樹や眼球怪物も描かれています。

No19:ヴィーナスの誕生
ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と比較すれば、
ルドンの素晴らしさが一目瞭然ですね。
写真では絶対に再現不可能な、絵画としての「ヴィーナスの誕生
を描写しています。
ヴィーナスは裸体で表現するしかないが、
見返り美人のポーズで、乳房は描かない事にルドンは成功しています。
お尻もぼかした描線で、尻の割れ目は、はっきり描かれてはいません。
美しい女の裸体をリアルに描くのは、底の浅い絵画だと
ルドンの絵を観ると納得出来ます。
ヴィーナスの誕生」だから女の裸をリアルに描くしかないとしか
考え付かない芸術家って、芸術が好きなのではなくて、
女の裸が好きとしか思えません。
人を感動させるのが目的の芸術家が裸体に拘るのは変ですよ。
女の裸に関係して生計を立てたいのなら、
芸術家になどならずに、アダルトビデオの男優にでもなればいいと思う。
芸術の名を騙る猥褻目的の変質者は許しませんことよ。

No20:ルッジェルロとアンジェリカ
No21:花
No22:青い花瓶の花
No23:赤いスフィンクス
No24:蝶