『千のナイフ、千の目』 蜷川幸雄 紀伊国屋書店

千のナイフ、千の目

千のナイフ、千の目

本書のベストセリフ

「客席に千人の青年がいるとしたら、彼らは千のナイフを持っているのだ」


思い詰めてナイフを所持する青年に、

刺されないような良い芝居を提供しようと決意しているニーナは素晴しい!

自分の事しか考える力の無い、

想像力貧困の演劇人がほとんどだが、

くだらねえ芝居を見せたら客に刺されても仕方が無いと思っているニーナはかっちょええよな。

普通の演劇人は、たとえ客がナイフをかざしてきても、

客席にじっと座るしか能のない屑に、

舞台で体を動かす訓練をしている俺様が刺されるものか!

客がナイフを持っていても、蹴りで簡単に退治してやればいいと思うよな。

ニーナ以外の日本の演劇は仲間内のお遊びサークルなので、

思い詰めた危ない客なんて、まあいないと思うけどw

どんどんいくぜ!

「――では、あなたは自分の演出した作品が正しく伝わらなくてもいいのですか」

「正しく伝わるということの意味がわかりません。

考えてみてください。

観客にとって演劇をみる契機はさまざまです。

千人の観客がいれば千の動機があり、

千の人生があるのです。

なにかが伝わるというのは、実に重く遠いのです。

そして作品はどのように理解されようと、

ぼくがとやかくいうべきことではありません。

それは他人の人生に注文をつけることになります。

ぼくはそういうのは嫌いです。

日常も生活も人も重いのです」

自分の表現力がヘタなのに、

客に誤読されたと怒るクリエイターは、

客の人生を洗脳したいと企むファシストですな。

素晴しい芸術作品も、つまんない日常生活をするしかない庶民も、

同じ重さだと判ってないふざけたエリート意識を持つクリエイターは社会の敵ですなw

「――演劇雑誌の取材は、拒否していると聞きましたけれど、本当ですか」

「本当です。

僕は演劇業界とは、つきあいがありません。

新聞や雑誌の劇評を読んでみりゃわかりますよ。

業界内言語の氾濫と、

自分を疑ったことのないいい気な言語がのさばり歩いています。

みんな一度生活者になって、

一つの芝居をみるということが

生活者にとってどういうことなのかを考えてみればいいんです。

とにかく、

自分で切符を買いに行くことから始めてみたらどうでしょうか」

自腹を斬ってない作品鑑賞を全否定する素晴しい言葉ですな。

プロの批評家の言葉は真実の重みがない糞ですよなw

「――あなたにとって演出とは、なんですか」

「そんな質問に答えられるくらいなら、演出などしていません」

「――でも演出家によってはちゃんと演出についての本を出している人もいますよ」  

「その人たちは、

書くことによって自分を見事に対象化できる人たちなのです。

ぼくは書くことによって自分を発見できないのです。

ぼくは事物と人との関係のなかでしか、

自分に出会えない人間なのだと、

つくづく思います。

でもこれは資質の問題であって、

価値の問題ではありません。

誤解されていますけれどね、価値の問題だと」

クリエイターというものは、

自分が使用している表現方法が、

もっとも価値のある方法だと叫ぶものだが、

価値が高い低い、良い悪いの問題でなくて、

表現者の資質に合っているか合ってないかの問題だと、

絶対的な価値感を認めないニーナは素晴しいですよな。

他にも客を大事にするニーナの素晴しいエピソードが満載なので、

ぜひ、買って読んで下さい。

路上でファンと遭遇して親しくなるエピソードが多すぎるのは嘘臭いが、

嘘であってもファンの人権を認める芝居を続けるニーナの努力は評価しようぜ。

芝居のプロの筈なのに、ファンを大事にする芝居をする能力のない、

無神経で野蛮で破廉恥なゴロツキが日本の演劇人のほとんどだからイヤンなるよなw