『続名画を見る眼』 高階秀爾 岩波新書

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

●モネ「パラソルをさす女」
光の効果に拘る印象主義を突き詰めると、
「睡蓮」のような平面的なモチーフしか描けなくなる事が理解出来た。
色彩分割を手法としてやっている内は良いが、
人間の魂の描写を忘れ、光の写実的表現にのみ拘ると、
光が綺麗なだけの、中身のない薄っぺらい印象派絵画が出来上がるのだ(藁

ルノワール「ピアノの前の少女たち」
印象派は形態よりも色彩の表現を重視する。
モネは人物画を捨て、風景画静物画に走ったが、
ルノワールが生涯同じような人物画(女!女!女!)ばかり描いていたのは、ルノワールの次の言葉で説明出来る。
「私の好きな絵画は、風景ならばそのなかを散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ」
やっぱり、ルノワールは女が好きで堪らず、
いつも女の体に触ることばかりを妄想していた猥褻野郎ケテーイですな(藁
絵を描く代償行為がなければ、ルノワールは婦女暴行魔として歴史に名を残したであろう(爆

セザンヌ「温室のなかのセザンヌ夫人」
で、印象派理論を真面目に追求したセザンヌ静物画の大家になった。
印象派という時代の風に触れながらも、女のことが一生頭から離れなかったルノワールの品性の下劣さがよく理解出来ますね(藁

●ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」
ゴッホの耳きり事件は、ゴーギャンを刺すのに失敗した後だと、
流布されるべきであ〜る。
同居していたゴーギャンとの愛の縺れですな(藁
毒舌批評家としてのゴーギャンの鋭い視線にたじろいで、
ゴッホゴーギャンを刺せずに家に逃げ帰って耳を切ったのだ。
ゴーギャンの方がかっちょええよな。

●ゴーガン「イア・オラナ・マリア」
ヨーロッパ偏重主義を批判したゴーギャンは偉いよな。
バラ色の頬の乙女ばかり描いていたルノワールには、
ゴーギャンの絵の価値は理解出来ないであろうな。
ルノワールなら、浅黒い肌の土人の娘なんて触る気が起きないので、描く気もしないと思ったでしょう。

●スーラ「グランド・ジャット島の夏の日曜日の午後」
個性はあるが、魂の抜けた人形達に見えて、感動しませんな。

ロートレックムーラン・ルージュのポスター」
ロートレックネタは別コンテンツと被るのでパス。

●ルソー「眠るジプシー女」
素朴派ですか?私はシュルレアリスムに入れたい。
好きと嫌いの境界線にいる画家だからどうでもいいが(藁

ムンク「叫び」
ムンクネタは別コンテンツと被るのでパス。
グリューネヴァルトも良いということをメモっておく。

マティス「大きな赤い室内」
マティスにももちろん理論はあるのだが、私には手抜きを正当化する為のこじつけにしか思えない(藁。

ピカソアヴィニョンの娘たち」
この絵からピカソは頭がおかしくなったのです(藁

シャガール「私と村」
くどい、きもい。

カンディンスキー「印象・第3番」
抽象絵画の父と呼ばれるカンディンスキーだが、
同じ抽象画と言っても、モンドリアンよりはマシだと理解出来た。
って、ゆうか、抽象絵画の危険性に気付いていたカンディンスキーの理論は感動的ですらある。
外界の再現を完全に拒否した絵画は、「ネクタイの柄か幾何学模様のような」装飾的なものに行きつく危険がある。
芸術が単なる装飾と区別されるためには、
そこに芸術家の感動にもとづく「内的必然性」がなければならない。
芸術作品とは、内的要素と外的要素とのふたつの要素から成る。
内的要素というのは、芸術家の魂の感じた感動であり、芸術家はその感動を、感覚を通して作品にまで造形化する。
一方、観客(鑑賞者)は、逆にその造形化された作品を自己の感覚で受けとめて、自己の魂の中に芸術家の感じたような感動を体験する。
この両方の感動がなければ、芸術は成立しない。
この点では、絵画芸術も音楽とまったく同じで、どちらも「伝達」にほかならないのである。
図式的に示せば、次のような「伝達」が成り立つ。
芸術家の感動→感覚→芸術作品→観客の感覚→感動。
この「伝達」によって、芸術は単なる装飾ではなく、ひとつの表現となる。