『西洋美術史』?「近代?新古典主義・ロマン主義・写実主義」 高階秀爾 美術出版社

?a市民社会の芸術
新古典主義
古典古代<ギリシア・ローマ>の美術を自分達の美術の規範にしようという運動。
ロマン主義
主観的な激情に溢れ、社会的矛盾をリアリスティックに糾弾する運動。
世界征服を目指したナポちゃんへの怒りが原因でもある。
普遍的な古典古代文明から国々の特殊性へと関心が移行。
写実主義
法名写実主義と混同してはならない。
様式名の写実主義は、社会の現実を写して残そうという運動。

?b建築
とくになし。

?c彫刻と工芸
ゴシック彫刻を思わせるものもある。

?d絵画
フランス
ジャック=ルイ・ダヴィッドはプッサンの確立した物語画(歴史画)の手法を厳格に応用し、
「テニスコートの誓い」などを書いた。
ジャン=オーギュスト=ドミニック・アングルの物語画は19世紀前半のアカデミズム絵画の折衷的な特徴を示している。
ジャン・ルイ・テオドル・ジェリコーは帝政末期に大陸軍の兵士や馬を描くことで画家として出発し、
1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の政府の責任による難破事件という
時事的なテーマを「メデューズ号の筏」という大作に描き上げて絶賛された。
このほかにも彼は短い生涯に狂人や人体の断片などの非古典主義的なテーマを開拓し、天才と呼ばれ
激しいタッチによる運動感の表現によって、
ロマン主義絵画の最初のマニフェストを行った。
ジェリコーの作品は新時代の美意識のマニフェストであった。
ウジェーヌ・ドラクロワジェリコーを真似て、ロマン主義の技法は完成させた。
しかし、作風はロマン主義的だが、表現したい激情が彼の主観にあったとは読み取れない。
文学的歴史的テーマを描くことが主流であった19世紀前半の画壇で、
バルビゾン派の画家たちはパリ近郊のフォンテーヌブローの森などのありふれた風景を製作した。
テオドル・ルソーは自然に及ぼされる光の効果の表現に優れている「アブルモン、柏の木群」を描いた。
一人静かに、絵を描いたり本を読んだりするのが好きな内向的な少年馬場正平は、
中学で美術部に入ったが、いい体してるんだからスポーツしないともったいないと他人に強要され、
心優しい正平は、他人が喜ぶのならと野球部に転部し、
後に巨人軍に入団することになるのだが、根が真面目な彼は、
フロントや監督にお歳暮等の付け届け(ようは賄賂だね)を送るという発想が出来ずに、
登板機会をあまり与えられずに、干されて、大洋にトレードされるのだが、
大洋の宿舎での事故で野球人としての能力は失った。
スポーツは、他人と競うという競技。ルールが厳しくて安全性が高いといっても、本質は戦争、他人との喧嘩である。
正平青年は他人と争うのが嫌いなので、スポーツで生計は立てたくなく、
真面目に地味にサラリーマンになるつもりだったが、
力道山に誘われてプロレスをする破目になる。
人が喜ぶのならと、嫌いなスポーツを続けてきたが、
怪我で入院した彼は、人の為ではなくて、自分の為に静かに生きたいと思い詰め、
入院したまま死んだ事にし、フランスに渡った。
フォンテーヌの森で静かに絵を描いている大男を見かけても、
声をかけてはいけない。
彼は他人の為にしたくもない喧嘩を何十年もしてきたのだから、そっとしといてやれ。

イギリス
アメリカ出身のベンジャミン・ウエストは、完璧に古典主義的な物語画を製作した。
19世紀前半のイギリス絵画は風景画の黄金期であった。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、光の表現に情熱を燃やし、
カルタゴを建設するディド」「雨、蒸気、速力ーグレート・ウェスタン鉄道」等を描いた。
ジョン・コンスタブルは、率直に自然を見、表現することによって19世紀の風景画の方向を定め、
印象派の画家たちにも大きな影響を与えた。
ドイツ
ドイツロマン派は二つに分類出来る。
一つは、エルベ河畔の町ドレスデンにおける風景画の発展である。
天才カスパル・ダーヴィト・フリードリヒは1790年代の終りにこの町に来て生涯をここで過し、
宗教的象徴的意味を担った観念性の強い「氷洋の難破船」等の風景画を製作した。
彼の描く広大な風景は世界そのものを暗示し、
鑑賞者に背を向けて風景に向かい合う人物は人生の苦悩に立ち向かう人間を示している。
断崖は死の、遠くに開けた眺望は形而上的な救済の象徴である。
航行する帆船は人生の旅路に乗り出している人間であり、
難破船は挫折を意味する。
彼の風景画は隅々にいたるまで人間の生の根本的な問題を巡って構想されており、
時には文学性と哲学性の過剰を感じさせるほどであるが、
一度目にすれば忘れることの出来ないその視覚的印象の強烈さが、
実は鋭い観察力と描写力によって生じていることを忘れてはならない。
主観の投影としての自然という彼の思想は純粋にロマン主義的な風景画観を示すものである。
もう一つは、プリミティヴィズムのナザレ派。
スペイン
フランスのダヴィッドとほぼ同時代を生きた
フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、
世紀の転換期のスペイン美術を一人で代表する大巨人であった。
イタリア留学のあと王室のタピスリ工場の下絵描きの職について、
風俗的なテーマをロココ風の華やかな色彩と軽妙なタッチで描いたカルトン(原寸大下絵)を多数製作した。
1780年代末には王の画家、1799年には首席宮廷画家の地位につき、
強力なパトロンにも恵まれていたゴヤであったが、
その芸術の本質を決定しているのは宮廷芸術家としての華やかなキャリアではなく、
1792年末の病気で全聾になったこととナポレオン軍による祖国の蹂躙を体験したこととであった。
フランス革命勃発の頃、啓蒙思想に関心を抱いたゴヤは、
革命が引き起こした戦争という現実に裏切られ、
全聾の悲劇に見舞われて、
1799年に人間性の愚かさと虚偽を呵責なく暴いた「きまぐれロス・カプリチョス」
と題する版画集を出版した。
同じ頃、宮廷画家としては、卓越した描写力を感じさせる「カルロス?世とその家族」などの肖像画
二点の「マハ」(伊達女の意)像を描いている。
ナポレオンのスペイン支配の時代に、ゴヤは戦争の壊滅的な力を暗示した「巨人」や、
フランス軍素手で立ち向かった民衆の処刑を描いた「1808年5月3日」を製作している。
戦争や侵略への憎悪は版画集「戦争の惨禍」を生んだ。
公的な生活から退いた最晩年に暮らしていた家の壁に描いたいわゆる「黒い絵」連作は、
ゴヤが生涯にわたって体験した個人的社会的な悲惨を強迫的な映像で表現した特異な作品である。
ゴヤは主観的な情熱を作品に託した点ではロマン主義美術の先駆者であり、
おのれの人生の課題を制作に直接に反映させた点では
芸術の近代的なありかたを示した最初の芸術家といえる。
近代芸術はゴヤに始まった。ゴヤ以前の芸術はもはや芸術ではない。
歴史資料として研究者に、投機の対象として金持ちに意味があるだけで、
観て感動する芸術はゴヤ以前には存在しないのだ。