『踏みはずす美術史−私がモナ・リザになったわけ−』 森村泰昌 講談社現代新書

踏みはずす美術史 (講談社現代新書)

踏みはずす美術史 (講談社現代新書)

既成概念を外しすぎて付いていけない人も出そうだが、

普通の美術史を学ぼうとして挫折する初心者が出ないように、

あえてギャグをやっていると解釈する。

駄洒落は踏みはずすというか、滑りまくりだが、

支配階級である選ばれたエリートのインテリの手から、芸術を解放し、

マッセの手に取り戻す為に書かれたと解釈する。

絵を観る行為は、考える行為でもあるのだが、

森村は、考えなくてもよいとまで極言する。

頭で理解出来ない芸術は、芸術ではなくて、単なる装飾と捉え、

その図柄の服があったら着てみたいか?

料理の盛り付けとしては食べてみたくなるか?

などと、視覚に訴える筈の絵を、別の感覚に転換して感じるのもOKと言う。

考える知的な大人の男性に拘らずに、

女子供の発想で絵を観てもOKと言う。

まあ、こう書けば脱落する初心者は出ずに、

美術愛好家の裾野が広がり、最終的には美術界全般の為になるのであろうが、

考える能力を持たない我儘な女子供に辟易してる私としては、

一抹の不安は覚える。

森村氏が自由な発想を推奨するのは、仲間を増やして共生し、

友達の輪を広げる為である。

苦しんでいる他人を救う為に、

「君は自由に生きていいんだよ」

と言っているのだが、

「自由に生きる権利があるうちらは、他人を苦しめてもOK」

と誤読する馬鹿な子供が発生しないことを切に望む。

真面目な美術史の本として読んだ場合、

プラド美術館最強論を補強するいいネタが書かれていたのはグッドだぜ!

世界一のプラド美術館と言うが、世界一の名画モナリザルーブル美術館所蔵じゃん!

ルーブルが世界一では?との突っ込みは有り得るが、

レオナルドが描いたモナリザが世界一であるならば、

尚且つ、ルーブルよりプラドの方が世界一になるのである。

現代にレオナルド・ダ・ヴィンチが生き返ったら、

俺が描いたモナリザに最も近い絵は、プラド美術館にあると認めるだろう。

ルーブルにあるのが、もちろん本物で、プラドにあるのは、本物から50年後に描かれた模写である。

が、本物のモナリザは500年の間に劣化し、ダ・ヴィンチが表現した色合いは残っていないのだ!

プラドの贋物の方が描かれた当時の本物に近いのである!

表現者の表現が色褪せた、残骸のような絵を名画と言うのは、

描いたレオナルドに対しても失礼だと思う。

しかし、絵を観る能力のないミーハーたちは、これからも永遠にルーブルモナリザを名画と言い続けるのだろうな。

これから、500年たち、1000年たち、

ルーブルモナリザから色が完全に消え、

モノクロになっても名画と言われると思う。

線が消え、たぶん、モナリザの目玉だけしか判別出来なくなっても名画と言われると思う。

というか、白紙を展示しても、モナリザと題名付ければ、

ミーハーは喜んで見るに違いない(藁

レオナルド・ダ・ヴィンチは地獄でミーハーに嘆いているだろうと思われ。

いや、天国でも煉獄でもなんでもいいですが。