『パブロ・カザルス鳥の歌』 J・ウェッパー編 池田香代子訳 ちくま文庫

パブロ・カザルス 鳥の歌 (ちくま文庫)

パブロ・カザルス 鳥の歌 (ちくま文庫)

世界一の芸術大国スペインの天才チェロ奏者パブロ・カザルスが語った言葉と、

カザルスについて語られた言葉を集めた珠玉の名セリフ集です。

訳者が宇宙英雄ローダンシリーズの訳者だが、

体言止めを駆使する師匠の松谷健二文体は多用してないから心配するな(藁

って、こんな突っ込み思いつけるのは俺様だけだな。

ペリー・ローダンファン兼パブロ・カザルスファンなんて、世界に俺様唯一人だろう(爆

何が言いたいかと言うと、教養はあればあるほど、違う作品のクロスオーバーを楽しめてよいということです。

一流のものは、一流のものに自然とリンクするということです。

池田香代子の代表作は普通は、「ソフィーの世界」か、

「もし世界が100人の村だったら」とされると思うが、

ローダンにもカザルスにも興味がある池田香代子は一流だね。

一流の存在は一流の作品に触れたがるという論理を捻くると、

自分の作品の客を拒否する行為は、客を三流扱いしてると判断出来るな?

客を拒否するクリエイターって、自分を一流と思っているのか?(藁

カンディンスキーの芸術論も知らないくせに、一流気取りはちゃんちゃらおかしいな。

カンディンスキーストラヴィンスキーも知らないと思われ。

でも、ストラディヴァリウスは持っていたりしてな(爆

私怨、じゃなかった、不正に対する正当な抗議はこのぐらいにして、名セリフを列挙する。


音楽は目的のために役にたたなければならない。

人間性という、音楽自体よりも大きなものの一部でなければならない。

そして、現代音楽について私がいちばんいいたいのは、それが人間性を欠いているということだ。

独創性を強調していると、行き着く先はおろかな脱線だ。

私たちはそれぞれに、自然のもっとも控えめな創造物程度には独創性をもちあわせている。

友達が向こうからやってくるとする。

遠くからもうその歩きぶりを見て、あなたはそれが友達だとわかるはずだ。

目立とうとして、ことさらにオーバーな身ぶりをする必要なんかない。

どうしてだろう?

彼が自分じしんの特徴を、独創性をもっているからだ。

音楽において、独創的に見せようとして派手なことをしたり

ばかげたことを書くのはたやすいことだ。

むつかしいのは、理解できることばを使って自分じしんの個性を作品に刻み込むことだ
 

人間の尊厳にたいする侮辱は私にたいする侮辱だ。

そして不正に抗議することは良心の問題だ。

芸術家にとって、人間の権利はほかの人びとにとってよりも重要ではないだろうか?

芸術家だからといって人間としての義務が免除されるものだろうか?

それどころか、芸術家の責任はより重い。

なぜなら彼は特別な感受性と知覚を授けられているのだから。

そして彼の声はほかの人びとの声が聞かれないときにもひょっとしたら聞かれるかもしれないのだから。


私が私の芸術で求めているのは、人と人との平和と調和だけです。


カザルスは、他人の権利を犯そうとする者には断乎抗議しなくてはならないと信じていた。

いつだったか、私たちがいっしょに海岸を散歩していたら、こういうのだ。

君の足跡を踏むというのは、私の自由かな?自由は濫用してはいけないからね 


私はまず第一に人間です。第二に芸術家です。

人間として、私の第一の義務は私の同胞たちの幸せをはかることです。

私は神が私にあたえてくださった手段である音楽をつうじてこの義務を果たそうと努力しようと思います。


私は音楽や、さらにはそのほかのどんな芸術も、それ自体が解答になりうるなどとかんじたことはない。

楽家も人間なのだから、人生にたいする彼の態度は彼の音楽よりも重要だ。
この二つは分けられない。

人として体験できるもっとも素晴らしいことは、全人類への愛、全世界に注がれる愛です。

それは男女間の愛よりずっとたいせつです。

それを知ることは、とりもなおさず生の意味を知ることです。

そうすれば、あなたは苦しみを理解することになるでしょうから。

人間の苦痛という問題はすべて音楽より重要です。

ヒューマニティにかかわるあらゆることは、

なにか美しいもの、音楽や絵画を愛する気持より重要です。

ヒューマニティは音楽よりはるかにたいせつです。

あなたはヒューマニティのために音楽をとおして、

あるいはなにか気高いものをとおして貢献することができます。

しかしすべてにまさるものは愛、生きているものすべてにたいする愛です。

私は、他者を気遣うという能力が人生にもっとも深い意義と目的をあたえてくれると信じている。


私は芸術家だが、自分の芸術を実践するときには、

私は結局一介の筋肉労働者なのだ……これまでだってずっと。


どんなに重要な人物の企てや活動も、高潔さと優しさが核心になければならない。


爆撃がいちばん激しかった時期、

カザルスは、どんな事情があってもロンドンでは演奏しないように忠告された。

イギリスの首都は連日猛烈な砲火をうけていたからである。

これ以上わくわくすることはないよとカザルスはいい返した。

私がいちばん楽しいのは、だれかの助っ人になることだもの。


才能はあたえられるものだ。

唯一、そこからなにかを創りあげそれを役立てたことにたいして、私たちは名声を要求することができる。

だから私は若い人にはこういうのだ。

あなたはたまたま才能をあたえられているだけだから、うぬぼれてはいけない。

それはあなたの功績ではない。

あなたが才能を創ったのではないのだから。

問題はあなたがその才能からなにを創りだすかだ。

才能はたいせつにしなければならない。

あたえられているものを無駄にしないように。

勉強しなさい、たえず勉強しなさい。

そして才能を育てなさい。


天才はおのずと完成する。どんなに優れた教師の指導もその生育にはごくささやかな力にしかならない。


ストラディヴァリウスをもちたいと思ったことはない。

私の考えでは、このとびきり素晴らしい楽器は個性が強すぎる。

演奏していると、いま自分の手の中にあるのはストラディヴァリウスだ、ということが頭にこびりついて離れない。

それはずいぶんと気の散ることだ。


なぜストラディヴァリウスにしないのか、と尋ねられて、カザルスは答えた。

私はカザルスが聴きたいのです。


「子供たちの教育について、私にはアイディアが、計画がある。

これまでにも有力な人びとにこのことを話してきたが、彼らはこういうのだ。

『なんと簡単なことでしょう。しかし思いつきませんでした』

 つまりこうなんだ、

子供が単語の意味を理解するほどに大きくなったらすぐ、

このことばは奇跡を起こすんだよ、

と教えるのだ。

目のことを話したら、見えるってすごい奇跡だね、といってやる。

話せるということがどんなにすごい奇跡かを説明してやる。

私たちの手ってすごいね、とか。

一つ一つの単語が素晴らしいことを意味しているということがわかれば、子供はみ
んな気づくだろう。

『僕は奇跡だ。あの子も奇跡だ。だから僕はあの子を殺せない。あの子も僕を殺せない』

私たちが戦争の衝動から遠ざかるには、この方法しかない。

学校では1+1=2と教えるが、人生は算数ばかりではない」